【介護エッセイ 】36年ぶりに一緒に暮らし始める…認知症の母と。(7) 【父の命日】

【前回までのあらすじ】

36年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷母は認知症となっていた。

これまでの親不孝を埋めるつもりで、私は母と同居したが

母の認知症は進むばかりだ。

hirokoの『こんなはずじゃなかった介護』の喜怒哀楽を綴ります。

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今日、9月7日は父の命日だ。父は69歳で逝き、その時、母は64歳だった。

 

今の私と数歳しか変わらない時に、母は夫の葬儀を行ったのだ。

 

2001年9月7日、父の棺を葬儀場に運ぶ車の中で、姉と私は号泣していた。

手術が成功せず眠ったままで父は逝ったから、

何が起きたのかわからないまま葬儀となったのだ。

 

しかし母は黒い車の中で一人凛としていた。娘二人に「泣かんで!」とたしなめた。

 

69歳の父はまだ県庁で教育関係の仕事をしていたから、

それなりの葬儀の準備がある(追記:新型コロナなど想像もしない時だ)。

 

母は病院での臨終直後から、香典返しはあの店のものをいくつとか、

喪服はどうのとか、テキパキやっていた。

夫を亡くしたばかりなのに、すごいと思った。

 

母の緊張感は、どこからくるのだろう。

 

世間に恥じないようちゃんとやらねば、という責任感なのだろうけれど、

本当は、何かしていなければ、立っていられない、

きっとそんな気持ちだったのではないかな、と今は思うのだけれど、、、

 

しかし、世間体や緊張感の話だけではなかった。

 

臨終の数時間後、高齢者施設から車椅子で来た姑(父の母親)に

 

「先に(息子を)死なせてしまってすみません」と、なんと母は謝ったのだ。

 

姑(父の母)は、嫁に厳しい明治生まれの姑だった。

病死なのに、父の死にまで責任を感じて、

姑に仕え倒した母の姿は、私には強烈でしかなかったし、

私にはわからない「主婦の心棒」のようなものを感じるだけだった。

 

私は初7日までを実家で過ごし、9月11日に起こった

ニューヨークのアメリカ同時多発テロ事件をテレビで見たところで、

これは雑誌の仕事も忙しくなる、との思いで職場へ戻ったのだった。

 

「お母さん、一人で大丈夫?」と一応声をかけたが

 

「大丈夫、東京で好きな仕事をしんしゃい」と母は言ってくれた。

 

しかしそこからじわじわと、母の認知症は始まっていたのだった。

 

一人暮らしになって、誰も世話をしなくていい生活になって、

緊張感がはずれたのだろう。

 

子育てが忙しい姉がたまに様子を見に行くたびに、

だんだん散らかっていく実家に気づく。そして私を東京から呼び寄せたのだった。

 

母の認知症は進んでいたが、私が実家に帰ってきたことを

「お父さん(夫)が呼んでくれた」と喜んでくれた。

 

父の命日には、和尚さんが来る。

 

お寺との付き合いも、今は私の役割ではあるが、決して得意ではない。

 

朝から仏壇にあげる御霊供膳を作らなければと慌てていたが、仏壇を見て驚いた。

 

母がとっくに作っていたのだ。

 

冷蔵庫にあるものを見繕って小さく盛っている。

もともとままごとのような御霊供膳が、ことさらままごとのように見えた。

 

日常の調理は一切しなくなった母が、命日の御霊供膳ばかりはしっかり作っている。

 

命日には父と母がしっかりつながるのかと、涙があふれた。

緊張感がきれいに取れた、母の心の現れのような御膳だった。

 

認知症は本人も周囲もつらい。

しかし「世間体や忙しい主婦業からは、もう離れていいよ」という、

 

先に逝ってしまった父のはからいなのかもしれない、と、

 

ふと思うことがある。

 

秋が来るたびに、父の命日が来る。(つづく)

 

 

 

【介護エッセイ 】36年ぶりに一緒に暮らし始める…認知症の母と。(6) 【母の喪服】

【前回までのあらすじ】

36年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。

これまでの親不孝を埋めるつもりで、私は母と同居したが

母の認知症は進むばかりだ。

娘hirokoの『こんなはずじゃなかった介護』の喜怒哀楽を綴ります。

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 母と同居して2年目、12月生まれの母は無事に82歳を迎えた。

 

母の姉達は全部90近くまで生きていたから、まだまだ大丈夫だと思う反面、

 

認知症の進行に、私も母本人も戸惑う日々が続いた。

 

記憶が薄くなるのは、ずいぶん前からで、

 

私が仕事でウチを空ける日は、町内会や老人会の行事も、

 

すっ飛ばしてしまうことばかりになった。

 

さりげなく誘いに来てくださるご近所さんには、いくら感謝してもしきれない。

 

そんなある日、ご近所さんさえ知らない事件が起こってしまった。

 

私が仕事から帰宅すると、母が喪服を着て座っていた。

 

「お父さん(私の父)が世話になった方が亡くなったから

 

香典を持って行った」と言う。

 

近所付き合いの事は、私はできるだけ口出ししないようにしている。

 

町内のご不幸なら、一緒にお悔やみに行ってくださる方があるから

 

まかせきりだった。

 

しかしその日、母は一人で出向いたようで、どうも様子がおかしい。

 

私は、喪服を着た母に「ひとりでお悔みに行ったと?」と訊いた。

 

すると母が「亡くなってはいなかった」と言う。

 

はあ? 喪服で香典を持って行ったところが、葬儀などなかった。

 

その上、車で送ってくださった、と母が小さい声で話すのだ。

 

さすがにこれには驚いた。

 

母に「亡くなったことは誰から聞いたの」と訊くが、

 

「わからない」と言うだけ。

 

ご近所数軒に訊いたが「そんな話はない」と言われるだけだった。

 

認知症の妄想症状だ。

 

母の認知症はこんなにも進んでいるんだ。

 

36年ぶりの母との暮らしは平穏のはずだったのが、

 

認知症は待ってはくれない。

 

これからはもっともっとこんな症状は出るのだろう。

 

私は介護職だから、認知症の知識はあると冷静に構えているつもりでも、

 

娘としてはおろおろする未来図が頭をよぎった。

 

その夜はいつもより浅くしか眠ることができなかった。

 

翌朝、玄関脇で泥まみれの靴を見つけた。

 

母の喪服用の黒靴だ。

 

田舎のたんぼ道を、失礼があってはいけないと、母は必死で歩いて行ったんだ。

 

そう気づいて靴を拭いていたら、涙がこぼれて、

 

母にはもう何も言えなかった。

 

認知症ならすっとんきょうな事をするかもしれない。

 

人に迷惑をかけるかもしれない。

 

でも当人は礼儀を重んじ、必死にしきたりを守っているのだ。

 

母と暮らす師走は、喜怒哀楽を乗せて猛スピードで過ぎていった。(つづく)

36年ぶりに一緒に暮らし始める…認知症の母と。(5) 【苦しかったことも忘れてしまう認知症】

 

 【前回までのあらすじ】

35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。

これまでの親不孝を埋めるつもりで、私は介護の仕事をしながら

一緒に暮らしはじめた。

母の認知症は進むばかりだ。

でも身体はまだまだ丈夫、、のはずだったのが・・・。

娘hirokoの『こんなはずじゃなかった介護』の喜怒哀楽を綴ります。

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母は満81歳となった。記憶力は衰えてきたが、身体が丈夫なのはありがたい。

 

デイサービスでお祝いして頂き、元気にケーキを食べていた。

 

しかし、その1週間後、母は救急搬送された。

 

デイサービスにいたとき、母は突然、息苦しいと言い始めたのだ。

 

呼ばれた私に、デイサービスの看護師は不整脈ではないか、と言うので、私の車でかかりつけの病院に急行した。

 

意識はあるが、こんなの初めて、という顔面蒼白さ。

 

小さな病院の心電図でわかったことは、狭心症心筋梗塞の疑いで、

 

精密検査のできる県立病院に救急搬送します、と医師に告げられる。

 

え? そんなに?

 

私は介護士という仕事柄、救急車に乗ることはたまにある。

 

しかし母と乗るのは初めてだった。

 

冷静にしているつもりでも、私の手を握りしめる母を見ていると、ドキドキしてきて、救急隊員さんの声が遠くなっていく。

 

母は病院嫌いだった。

 

いや、少々きつくても、我慢していたのではないか?

 

私が同居していたのに情けない……姉に連絡しなくては……いろいろなことが頭をよぎる。

 

あとは親戚?

 

心の準備とはこういうことを言うのだろう。

 

県立病院で精密検査を受けたが、点滴で母は少し落ち着いて、即入院は免れた。

 

大量の投薬と再受診を指示されて、二人ともぐったりとして帰りつく。

 

その夜は薬が効いて、胸の苦しさは治ったが

 

母は「ごめんね、ごめんね」と繰り返していた。

 

「子どもに迷惑だけはかけたくない」がずっと口癖だった母、

 

認知症になっても、この気持ちが抜けないんだね。

 

「ごめんね」は「こちらの台詞」だ。

 

55年生きてきて、母と同居しているのは19年しかない。

 

やっと再び同居したと思えば、母は弱っているという、親不孝者だ。

 

母の病名は『大動脈弁狭窄症』で、医者は言う。

 

「心臓弁の話だから、いきなり詰まってしまうかもしれない、薬も万能ではない、年齢的には万一のことを考えてください」と。

 

ショックだった。

 

専業主婦でいつも元気に家族の世話をしていた母、

 

そのころに心臓の力や体力を使ってしまったのかもしれない。

 

急速に衰えた母の表情を見ると、

 

不自由なく育ててくれた裏側に、母にはどれくらいの苦労があったのかと

 

今更ながら、心がいたんだ。

 

 

翌日、朝一番で母に具合はどうか、と尋ねると

 

「救急車に乗ったかな? 忘れたよ、、、」ときた。

 

認知症は短期記憶が無くなるとはいう。

 

しかし、苦しかったことも忘れてしまうのか?

 

こちらの心配もいっとき緩んで

 

「ま、いいか」と自分を言い聞かせた。

 

認知症と心臓の患いと、伴走してくるものは増えていく。

 

何かの覚悟は決まってきたかな。

 

ゆっくり二人で付き合っていこうね、お母さん。(続く)

 

 

 

35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(4) 【認知症で、家族の絆をもういちど結ぶ】

【前回までのあらすじ】

35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。

これまでの親不孝を埋めるつもりで一緒に暮らしたが、

母の認知症は進むばかりだ。

娘hirokoの『こんなはずじゃなかった介護』の喜怒哀楽を綴ります。

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 私は出版の仕事を東京で26年余り行い、50歳で介護ヘルパーに転職した。

180度違う世界に踏み込んだ私に、介護ができるのか? と言う人も多かったし、実際、介護の勉強はラクではなかった。が、母の一人暮らしを思うと、少しは親孝行の挽回をしようという気持ちが自分を支えていた。

 

 母と暮らすために佐賀に戻ってから、仕事で介護職をしながら、母の介護を始めた。介護職だから母の介護もバッチリできるぞ、と当初はルンルンであった。

 

 が、しかし・・・。

 

 介護の仕事から帰って、母の食事を作り風呂に入れるのは、正直きつかった。

 そのうち食事は手抜きに。そのまま食べられる惣菜を冷蔵庫に入れておき、先に食べておいてね、とやりだした。

 

 それでも母は食べていた。

 娘が調理に手を抜いても「先に食べてごめんね」としか言わない。

 

 そう言われるとかえってつらいこともあったが、食べている限り大丈夫だろうと自分を言い聞かせた。

 

 が、またまた、しかし・・・の事態に。

 母は冷蔵庫の中のものを取り出せなくなっていった。

 

 好きな魚を取り出せず、漬物と海苔だけで夕飯を済ませている。

 せっかく買ったものを捨ててしまうことも多くなった。取り出せないというより、きちんと食べることがおっくうなのだ。

 

 冷蔵庫の中も見ない。そんなことができないの? の連続で、母の認知症は進んでいく。

 

 外出も面倒、お風呂も面倒、着替えも食事も面倒。

 猫とテレビだけが友達の日々を過ごすようになった母。夏の猛暑でも、母は入浴を嫌がった。

 

 介護職なら慣れているはずの認知症の進行が、母のこととなるとイラついた。

 おしゃれで、家事は何でもできた母なのに、なんでこんなふうになるの? と。

 

 介護職とは関係なく、ただの娘として焦り、落ち込んだ。

 

 そして殆ど引きこもりになった母。

 

 しかし母は、たまに「おんなじことばかり言うてごめんね」とつぶやいた。

 

 居間でテレビをぼーっと観ている母の背中を見ると、母は母で、できないことが増えていく不安の塊なのだろう、そう思えてますますせつなくなっていく。

 

 母娘の生活にだんだん笑顔が無くなっていくのが私もしんどくて、休日は母と一緒に気分転換、必ず出掛けるようにした。

 好きな魚料理を食べて、帰りにスーパーで買い物をする。

 

 母は買い物も一人では出来なくなったが、スーパーに行くと、意外とスタスタと売り場を回っていた。

 

 そして決まって私の好物ばかりをカゴに入れていった。

 果物、エビ、そして、料理はもうしないのに、シチューの素を必ず探している。

 認知症になっても、娘の好物は忘れないのだ。

 

 私が実家を出てからたまに帰省すると、決まって私の好物のクリームシチューを作って待っていた頃の母が目に浮かぶ。 

 

 母も記憶が薄れていく自分と、必死で闘っているのだ。

 

 せっかく母と暮らしているのだから、もっともっと母を理解しよう、親孝行しよう、ホントに今更ながらの反省をしたものだ。

 

 休日の夕食は母の買ったシチューの材料で、こんどは私が調理をして、二人で食卓を囲む。少しは親孝行の挽回ができているのかな。小さな幸せを感じていった。

 

 ただ、また想定以上のことが。

 母の認知症は、だんだん身体にも影響が出てきたのだった。(続く)

35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(3) 【認知症とは、人生のアルバムを紐解くこと】

【前回までのあらすじ】

35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。

好物の果物も腐ったものを買ってくる。

私、hirokoの「こんなはずじゃなかった介護」の喜怒哀楽を綴ります。

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父が急逝したのは2001年

沈黙の臓器と言われる膵臓が悪いとわかった時には手遅れだった。

 

夏休みを使って数日だけ父を看病するつもりで東京から帰省した私は、そのまま初七日までを佐賀で過ごした。

 

教員を定年退職してから始めた保育園の園長のまま、69歳で急逝したものだから、新型コロナなどない時の田舎風の葬儀で、多くの方が来てくださった。

 

当時65歳の母は気丈にふるまった。

臨終の30分後には、地元の菓子屋に香典返しを注文をしていた。祖父の代から付き合いのあるお菓子屋でなくてはならないと言う。

泣いてばかりの私と姉は、母の仕切りにはまったくかなわない、とまた泣いたものだった。

 

それから15年が経ち、母は傘寿を迎えた。

 

「もう一人で暮らしきらんもん。お父さんがhirokoを呼んで一緒に暮らしている」が最近の母の口癖だ。

認知症の周辺症状なのだろう、他にも同じことを何度も言う。

 

「朝ごはんは食べんとね」(いらないよ←私)、

「水ば注文しとってね」(定期配達だよ←私)・・・

毎日の食べ物のことはまだいいが、だんだん昔話になってくる。

 

「ばあちゃん(父の母親で姑)は性格のきつかったあ」(58年前の話。相当嫁いびりをされたらしい)。

「(昭和)28年は屋根まで水のきたよ」(嘉瀬川氾濫の話)。

「戦争のときは逃げ回っとった」(母は10歳で終戦を迎えている)。

 

昔のこと、しかもしんどくきつかったことを、よけいに憶えているものなのだろう。

 

たまに母が言う。

「この話、何回も言うたかな。ごめん」。

 

母も自分の記憶力が薄れていく変化がつらいのだ。私もせつない一瞬だ。

 

せめて私は母に言う。

「お母さん、きつい姑に仕えて離婚もせんでよう頑張った。私にはできんよ」

「そうかね・・・」

そして少し嬉しい顔をする。母の嬉しい顔が私も嬉しい。

 

最近母がぼそぼそ話し出したことがある。

我が家のアイドル、ネコの小太郎が、お客様によって態度が違うという話になった時のこと。

 

母が言う。

「独身の時、うちにべスという犬のおったとよ。お客さんがきたらよう吠えた。でもお父さんが初めて来た時(父は母の親戚に下宿していた新米教師だった)、べスは吠えんかったと。この人はダンナさんになる人、と思った」と。

母は満面の笑みである。

 

何年前の話か?まいったね。

私が笑って、ごちそうさま、それはよかったね、と返したからか、それから何度もこの話をするようになった。

 

認知症は、人生のアルバムを紐解く病気なのかもしれない。

話したくて話せなかったことが堰を切って言葉の川となる。

 

いい思い出話は、何度話してもいいよ、と心で母に語りかけている。

 

几帳面だった母は、日に日にできないことが増えていく。

しかし思いの深いことを話す口元は活発だ。

 

亡くなった父も、母の中では生きている。(続く)

 

35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(2)

【前回のあらすじ】

35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。

私、hirokoの「こんなはずじゃなかった介護」の喜怒哀楽を綴ります。

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毎朝5時半、母の足音がパタパタと響く。父が生きている頃から新聞取りは母の役目だ。

新聞取りに限らず、母の毎日は家族のためだけにあった。

 

教員で厳格な夫と明治生まれの姑と40年以上同居し、娘二人(姉と私)を育ててきた。私は「仕える」という言葉は母から学んだようなものだ。

 

 パタパタという足音を聞くと、母もまだ大丈夫かな、とも思う。が、私も起きて台所に行くと、母が夜中に食べたお菓子の屑が床に散らばっている。

 

「お母さん、夜中にお菓子食べたと?」

「そっかね、わからん、ははは」

 

母は、わからん、ははは、とよく笑う。覚えてないことは、笑ってすます。

私は、好きなお菓子くらい食べればいいか、と思う反面、覚えていないことへの不安のほうが母の本音だと思うと、一緒に笑うことができなかった。

 

 新生活では、買い物はもっぱら私の仕事になった。それはそうだ。田園の中に建つ我が家、周囲4キロに、スーパー、コンビニは無い。

車の無い独居老人にとっては、軽トラックの八百屋さんだけが頼りだった。

 

 ある夕方、帰ると台所に私の好物の果物がどっさり置いてある。

 

「hiroko、果物が好きやろ。トラックの八百屋さんが来たとよ」

「ありがと」

 

食べようとして次の瞬間、目を疑った。蟻? 持つと梨がブヨブヨだ。

つとめて冷静に「いくらしたと?」と聞く。

「わからん・・・」

 

 生活の基本は衣・食・住とお金。

厳格な夫と姑に仕えてきた母が守ってきた「家計」は、娘の私が見てもきちんとしていた。

急な来客用のお菓子、子ども連れ用のお小遣い袋、集金人さんにお釣りの心配をさせないための小銭入れetc.

 

 お金は、母のように「人のために優しく遣うものだ」と教えられてきた。決して安くはない娘二人の学費は、母がいつのまにか貯めていた。

 

 それが、山盛りの腐った果物にいくら遣ったかわからないと言う。

 お金の計算も買い物も、できなくなったな。

 

 腐った部分をよけて、せめて食べられる部分を切っていて、涙がこぼれる。果物代が惜しいわけではない。

 

お母さん、娘の好物は忘れていないんだな、と胸がいっぱいになった。

 

 認知症と一言に言うが、忘れること、忘れないこと、母の心の中ではどうやって仕分けしていくのだろう。

 介護ヘルパーをしていても、ちっともわかっちゃいないな、母のこと。

 

 苦労したこと、嫌だったことは忘れていいよ。そう言い続けることがせめて認知症の母にかけられる言葉になってきた。(続く)

35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(1)

「お母さんがちょっと変。帰ってこられないかな?」

 

福岡に住む姉から、久し振りの電話を受けたのはある春の日のこと。

東京で約30年、仕事オンリーの生活を続けていた私は、佐賀で一人暮らす母に電話すら殆んどしない親不孝者だった。

 

「お母さん、すごいの、物忘れが。家事もしないからウチはゴミ屋敷。もう一人で置いておけないかも」

 

そう話す姉は、三人の子育てをすませて福岡で塾を開いた為、母の様子を見に行くのはせいぜい週1回。

 

母のことは見て見ぬふりの私を自由にさせてくれながら長女の責任を果たしていたが、体力は限界に近かったのではないか。

 

 東京生活も少々疲れていたREシングルの私にとって、姉の電話は自分の生活を見直す、いいきっかけとなった。

 

「母の症状は認知症の入り口だ」

姉の話を聞いて、そう直感した。

 

私は約27年間、出版の仕事をしてきたが、辞めた3年前から介護ヘルパーとして働いていた。

 

「そっかぁ、そろそろ佐賀に帰ろうかな」

 

Uターン帰郷を決心してから東京を引き上げるまでには、それなりにいろいろあったが、東京の友人の殆どが「お母さん第一だよ。帰る故郷(ふるさと)があって羨ましい」と言ってくれた。

 

福岡空港に降りて、迎えに来た姉と佐賀の実家に帰った。

ここで暮らすのは実に35年ぶりだ。

 

「ただいま」。

ゴミ屋敷ではあったが、玄関だけは母が掃除をしていた。

 

缶ビールを出して「ほら、飲まんね」と言う。

変わらないな。年一くらいで東京から帰る度に出してくれるビールだった。

 

違うのは、自分で買いに行けず、近所のHさんから缶ビールを借りていたことだ。

翌日私がビールを返しに行ったとき、Hさんは大声で喜んでくれた。

 

「hirokoちゃん、帰ってきたね。お母さん、嬉しかさぁ」

この方に一人暮らしの母はどれだけ世話になったことだろう。

申し訳ない気持ちばかりで涙が出て、ろくに話せなかった。

 

姉は福岡へ戻り、母との二人暮らしが始まった。

 

ゴミだらけの台所ではまともな調理もできなかった。

塩も砂糖も湿気ってしまいサバの缶詰ばかりが並んでいた。

 

どんな食生活をしていたのだと、今さら自分の不甲斐なさで目は潤むが、泣いている場合ではない、まずは大掃除だな、と覚悟を決めて、食事の材料とゴキブリホイホイ、カビキラーを買いこんできた。

 

母はとうに火が使えなくなっている。

電熱器のみとなった炊事場で、母娘の食事を作る日々が始まった。

 

3日ほど経って、東京から私の荷物が届いた。

 

殆どを処分してきたが、使いなれた小さな家具や服が段ボール5箱ほど。

 

母が荷ほどきを怪訝そうに眺めている。

 

「どっから来たとね?」

「東京からよ、私の荷物」

 

「なんば言いよ? あんた、ずっとここにおったろうもん……」

 

一瞬噴き出したが、その後は笑えなかった。

 

認知症、進行しているんだな。

もう一段階、覚悟を決めた夏の一日だった。(続く)