35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(2)

【前回のあらすじ】

35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。

久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。

私、hirokoの「こんなはずじゃなかった介護」の喜怒哀楽を綴ります。

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毎朝5時半、母の足音がパタパタと響く。父が生きている頃から新聞取りは母の役目だ。

新聞取りに限らず、母の毎日は家族のためだけにあった。

 

教員で厳格な夫と明治生まれの姑と40年以上同居し、娘二人(姉と私)を育ててきた。私は「仕える」という言葉は母から学んだようなものだ。

 

 パタパタという足音を聞くと、母もまだ大丈夫かな、とも思う。が、私も起きて台所に行くと、母が夜中に食べたお菓子の屑が床に散らばっている。

 

「お母さん、夜中にお菓子食べたと?」

「そっかね、わからん、ははは」

 

母は、わからん、ははは、とよく笑う。覚えてないことは、笑ってすます。

私は、好きなお菓子くらい食べればいいか、と思う反面、覚えていないことへの不安のほうが母の本音だと思うと、一緒に笑うことができなかった。

 

 新生活では、買い物はもっぱら私の仕事になった。それはそうだ。田園の中に建つ我が家、周囲4キロに、スーパー、コンビニは無い。

車の無い独居老人にとっては、軽トラックの八百屋さんだけが頼りだった。

 

 ある夕方、帰ると台所に私の好物の果物がどっさり置いてある。

 

「hiroko、果物が好きやろ。トラックの八百屋さんが来たとよ」

「ありがと」

 

食べようとして次の瞬間、目を疑った。蟻? 持つと梨がブヨブヨだ。

つとめて冷静に「いくらしたと?」と聞く。

「わからん・・・」

 

 生活の基本は衣・食・住とお金。

厳格な夫と姑に仕えてきた母が守ってきた「家計」は、娘の私が見てもきちんとしていた。

急な来客用のお菓子、子ども連れ用のお小遣い袋、集金人さんにお釣りの心配をさせないための小銭入れetc.

 

 お金は、母のように「人のために優しく遣うものだ」と教えられてきた。決して安くはない娘二人の学費は、母がいつのまにか貯めていた。

 

 それが、山盛りの腐った果物にいくら遣ったかわからないと言う。

 お金の計算も買い物も、できなくなったな。

 

 腐った部分をよけて、せめて食べられる部分を切っていて、涙がこぼれる。果物代が惜しいわけではない。

 

お母さん、娘の好物は忘れていないんだな、と胸がいっぱいになった。

 

 認知症と一言に言うが、忘れること、忘れないこと、母の心の中ではどうやって仕分けしていくのだろう。

 介護ヘルパーをしていても、ちっともわかっちゃいないな、母のこと。

 

 苦労したこと、嫌だったことは忘れていいよ。そう言い続けることがせめて認知症の母にかけられる言葉になってきた。(続く)