35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(4) 【認知症で、家族の絆をもういちど結ぶ】
【前回までのあらすじ】
35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。
久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。
これまでの親不孝を埋めるつもりで一緒に暮らしたが、
母の認知症は進むばかりだ。
娘hirokoの『こんなはずじゃなかった介護』の喜怒哀楽を綴ります。
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私は出版の仕事を東京で26年余り行い、50歳で介護ヘルパーに転職した。
180度違う世界に踏み込んだ私に、介護ができるのか? と言う人も多かったし、実際、介護の勉強はラクではなかった。が、母の一人暮らしを思うと、少しは親孝行の挽回をしようという気持ちが自分を支えていた。
母と暮らすために佐賀に戻ってから、仕事で介護職をしながら、母の介護を始めた。介護職だから母の介護もバッチリできるぞ、と当初はルンルンであった。
が、しかし・・・。
介護の仕事から帰って、母の食事を作り風呂に入れるのは、正直きつかった。
そのうち食事は手抜きに。そのまま食べられる惣菜を冷蔵庫に入れておき、先に食べておいてね、とやりだした。
それでも母は食べていた。
娘が調理に手を抜いても「先に食べてごめんね」としか言わない。
そう言われるとかえってつらいこともあったが、食べている限り大丈夫だろうと自分を言い聞かせた。
が、またまた、しかし・・・の事態に。
母は冷蔵庫の中のものを取り出せなくなっていった。
好きな魚を取り出せず、漬物と海苔だけで夕飯を済ませている。
せっかく買ったものを捨ててしまうことも多くなった。取り出せないというより、きちんと食べることがおっくうなのだ。
冷蔵庫の中も見ない。そんなことができないの? の連続で、母の認知症は進んでいく。
外出も面倒、お風呂も面倒、着替えも食事も面倒。
猫とテレビだけが友達の日々を過ごすようになった母。夏の猛暑でも、母は入浴を嫌がった。
介護職なら慣れているはずの認知症の進行が、母のこととなるとイラついた。
おしゃれで、家事は何でもできた母なのに、なんでこんなふうになるの? と。
介護職とは関係なく、ただの娘として焦り、落ち込んだ。
そして殆ど引きこもりになった母。
しかし母は、たまに「おんなじことばかり言うてごめんね」とつぶやいた。
居間でテレビをぼーっと観ている母の背中を見ると、母は母で、できないことが増えていく不安の塊なのだろう、そう思えてますますせつなくなっていく。
母娘の生活にだんだん笑顔が無くなっていくのが私もしんどくて、休日は母と一緒に気分転換、必ず出掛けるようにした。
好きな魚料理を食べて、帰りにスーパーで買い物をする。
母は買い物も一人では出来なくなったが、スーパーに行くと、意外とスタスタと売り場を回っていた。
そして決まって私の好物ばかりをカゴに入れていった。
果物、エビ、そして、料理はもうしないのに、シチューの素を必ず探している。
認知症になっても、娘の好物は忘れないのだ。
私が実家を出てからたまに帰省すると、決まって私の好物のクリームシチューを作って待っていた頃の母が目に浮かぶ。
母も記憶が薄れていく自分と、必死で闘っているのだ。
せっかく母と暮らしているのだから、もっともっと母を理解しよう、親孝行しよう、ホントに今更ながらの反省をしたものだ。
休日の夕食は母の買ったシチューの材料で、こんどは私が調理をして、二人で食卓を囲む。少しは親孝行の挽回ができているのかな。小さな幸せを感じていった。
ただ、また想定以上のことが。
母の認知症は、だんだん身体にも影響が出てきたのだった。(続く)