36年ぶりに一緒に暮らし始める…認知症の母と。(5) 【苦しかったことも忘れてしまう認知症】
【前回までのあらすじ】
35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。
久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。
これまでの親不孝を埋めるつもりで、私は介護の仕事をしながら
一緒に暮らしはじめた。
母の認知症は進むばかりだ。
でも身体はまだまだ丈夫、、のはずだったのが・・・。
娘hirokoの『こんなはずじゃなかった介護』の喜怒哀楽を綴ります。
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母は満81歳となった。記憶力は衰えてきたが、身体が丈夫なのはありがたい。
デイサービスでお祝いして頂き、元気にケーキを食べていた。
しかし、その1週間後、母は救急搬送された。
デイサービスにいたとき、母は突然、息苦しいと言い始めたのだ。
呼ばれた私に、デイサービスの看護師は不整脈ではないか、と言うので、私の車でかかりつけの病院に急行した。
意識はあるが、こんなの初めて、という顔面蒼白さ。
小さな病院の心電図でわかったことは、狭心症か心筋梗塞の疑いで、
精密検査のできる県立病院に救急搬送します、と医師に告げられる。
え? そんなに?
私は介護士という仕事柄、救急車に乗ることはたまにある。
しかし母と乗るのは初めてだった。
冷静にしているつもりでも、私の手を握りしめる母を見ていると、ドキドキしてきて、救急隊員さんの声が遠くなっていく。
母は病院嫌いだった。
いや、少々きつくても、我慢していたのではないか?
私が同居していたのに情けない……姉に連絡しなくては……いろいろなことが頭をよぎる。
あとは親戚?
心の準備とはこういうことを言うのだろう。
県立病院で精密検査を受けたが、点滴で母は少し落ち着いて、即入院は免れた。
大量の投薬と再受診を指示されて、二人ともぐったりとして帰りつく。
その夜は薬が効いて、胸の苦しさは治ったが
母は「ごめんね、ごめんね」と繰り返していた。
「子どもに迷惑だけはかけたくない」がずっと口癖だった母、
認知症になっても、この気持ちが抜けないんだね。
「ごめんね」は「こちらの台詞」だ。
55年生きてきて、母と同居しているのは19年しかない。
やっと再び同居したと思えば、母は弱っているという、親不孝者だ。
母の病名は『大動脈弁狭窄症』で、医者は言う。
「心臓弁の話だから、いきなり詰まってしまうかもしれない、薬も万能ではない、年齢的には万一のことを考えてください」と。
ショックだった。
専業主婦でいつも元気に家族の世話をしていた母、
そのころに心臓の力や体力を使ってしまったのかもしれない。
急速に衰えた母の表情を見ると、
不自由なく育ててくれた裏側に、母にはどれくらいの苦労があったのかと
今更ながら、心がいたんだ。
翌日、朝一番で母に具合はどうか、と尋ねると
「救急車に乗ったかな? 忘れたよ、、、」ときた。
認知症は短期記憶が無くなるとはいう。
しかし、苦しかったことも忘れてしまうのか?
こちらの心配もいっとき緩んで
「ま、いいか」と自分を言い聞かせた。
認知症と心臓の患いと、伴走してくるものは増えていく。
何かの覚悟は決まってきたかな。
ゆっくり二人で付き合っていこうね、お母さん。(続く)