35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(3) 【認知症とは、人生のアルバムを紐解くこと】
【前回までのあらすじ】
35年ぶりに実家の母と暮らすことになった。
久しぶりの実家はゴミ屋敷…母は認知症となっていた。
好物の果物も腐ったものを買ってくる。
私、hirokoの「こんなはずじゃなかった介護」の喜怒哀楽を綴ります。
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父が急逝したのは2001年。
沈黙の臓器と言われる膵臓が悪いとわかった時には手遅れだった。
夏休みを使って数日だけ父を看病するつもりで東京から帰省した私は、そのまま初七日までを佐賀で過ごした。
教員を定年退職してから始めた保育園の園長のまま、69歳で急逝したものだから、新型コロナなどない時の田舎風の葬儀で、多くの方が来てくださった。
当時65歳の母は気丈にふるまった。
臨終の30分後には、地元の菓子屋に香典返しを注文をしていた。祖父の代から付き合いのあるお菓子屋でなくてはならないと言う。
泣いてばかりの私と姉は、母の仕切りにはまったくかなわない、とまた泣いたものだった。
それから15年が経ち、母は傘寿を迎えた。
「もう一人で暮らしきらんもん。お父さんがhirokoを呼んで一緒に暮らしている」が最近の母の口癖だ。
認知症の周辺症状なのだろう、他にも同じことを何度も言う。
「朝ごはんは食べんとね」(いらないよ←私)、
「水ば注文しとってね」(定期配達だよ←私)・・・
毎日の食べ物のことはまだいいが、だんだん昔話になってくる。
「ばあちゃん(父の母親で姑)は性格のきつかったあ」(58年前の話。相当嫁いびりをされたらしい)。
「(昭和)28年は屋根まで水のきたよ」(嘉瀬川氾濫の話)。
「戦争のときは逃げ回っとった」(母は10歳で終戦を迎えている)。
昔のこと、しかもしんどくきつかったことを、よけいに憶えているものなのだろう。
たまに母が言う。
「この話、何回も言うたかな。ごめん」。
母も自分の記憶力が薄れていく変化がつらいのだ。私もせつない一瞬だ。
せめて私は母に言う。
「お母さん、きつい姑に仕えて離婚もせんでよう頑張った。私にはできんよ」
「そうかね・・・」
そして少し嬉しい顔をする。母の嬉しい顔が私も嬉しい。
最近母がぼそぼそ話し出したことがある。
我が家のアイドル、ネコの小太郎が、お客様によって態度が違うという話になった時のこと。
母が言う。
「独身の時、うちにべスという犬のおったとよ。お客さんがきたらよう吠えた。でもお父さんが初めて来た時(父は母の親戚に下宿していた新米教師だった)、べスは吠えんかったと。この人はダンナさんになる人、と思った」と。
母は満面の笑みである。
何年前の話か?まいったね。
私が笑って、ごちそうさま、それはよかったね、と返したからか、それから何度もこの話をするようになった。
認知症は、人生のアルバムを紐解く病気なのかもしれない。
話したくて話せなかったことが堰を切って言葉の川となる。
いい思い出話は、何度話してもいいよ、と心で母に語りかけている。
几帳面だった母は、日に日にできないことが増えていく。
しかし思いの深いことを話す口元は活発だ。
亡くなった父も、母の中では生きている。(続く)