35年ぶりに一緒に暮らす、認知症の母と。(1)
「お母さんがちょっと変。帰ってこられないかな?」
福岡に住む姉から、久し振りの電話を受けたのはある春の日のこと。
東京で約30年、仕事オンリーの生活を続けていた私は、佐賀で一人暮らす母に電話すら殆んどしない親不孝者だった。
「お母さん、すごいの、物忘れが。家事もしないからウチはゴミ屋敷。もう一人で置いておけないかも」
そう話す姉は、三人の子育てをすませて福岡で塾を開いた為、母の様子を見に行くのはせいぜい週1回。
母のことは見て見ぬふりの私を自由にさせてくれながら長女の責任を果たしていたが、体力は限界に近かったのではないか。
東京生活も少々疲れていたREシングルの私にとって、姉の電話は自分の生活を見直す、いいきっかけとなった。
「母の症状は認知症の入り口だ」
姉の話を聞いて、そう直感した。
私は約27年間、出版の仕事をしてきたが、辞めた3年前から介護ヘルパーとして働いていた。
「そっかぁ、そろそろ佐賀に帰ろうかな」
Uターン帰郷を決心してから東京を引き上げるまでには、それなりにいろいろあったが、東京の友人の殆どが「お母さん第一だよ。帰る故郷(ふるさと)があって羨ましい」と言ってくれた。
福岡空港に降りて、迎えに来た姉と佐賀の実家に帰った。
ここで暮らすのは実に35年ぶりだ。
「ただいま」。
ゴミ屋敷ではあったが、玄関だけは母が掃除をしていた。
缶ビールを出して「ほら、飲まんね」と言う。
変わらないな。年一くらいで東京から帰る度に出してくれるビールだった。
違うのは、自分で買いに行けず、近所のHさんから缶ビールを借りていたことだ。
翌日私がビールを返しに行ったとき、Hさんは大声で喜んでくれた。
「hirokoちゃん、帰ってきたね。お母さん、嬉しかさぁ」
この方に一人暮らしの母はどれだけ世話になったことだろう。
申し訳ない気持ちばかりで涙が出て、ろくに話せなかった。
姉は福岡へ戻り、母との二人暮らしが始まった。
ゴミだらけの台所ではまともな調理もできなかった。
塩も砂糖も湿気ってしまいサバの缶詰ばかりが並んでいた。
どんな食生活をしていたのだと、今さら自分の不甲斐なさで目は潤むが、泣いている場合ではない、まずは大掃除だな、と覚悟を決めて、食事の材料とゴキブリホイホイ、カビキラーを買いこんできた。
母はとうに火が使えなくなっている。
電熱器のみとなった炊事場で、母娘の食事を作る日々が始まった。
3日ほど経って、東京から私の荷物が届いた。
殆どを処分してきたが、使いなれた小さな家具や服が段ボール5箱ほど。
母が荷ほどきを怪訝そうに眺めている。
「どっから来たとね?」
「東京からよ、私の荷物」
「なんば言いよ? あんた、ずっとここにおったろうもん……」
一瞬噴き出したが、その後は笑えなかった。
認知症、進行しているんだな。
もう一段階、覚悟を決めた夏の一日だった。(続く)